心配は無用

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。―マタイ6:26

今年も南の国から本庄までツバメがやって来た。昨年は教会堂の玄関下に巣をつくり、立派に5羽の子どもたちを育て帰って行った。果たして何羽が生き延びたであろうか。しかし今年もつがいで来てくれてうれしく思っている。そして、せっせと泥を運び、巣を修繕し終わった。もうすぐ卵を産み育てるだろう。今から楽しみだ。彼らは、天の父に養われ、飢えることなく、生きている。毎年数千キロの旅をし、はるばる日本までやってくる。ツバメが心配する姿を見たことがない。鳥たちは生き生きと自分を生きているように見える。

さて今日の聖句はマタイの福音書からモーセ律法をイエスが解釈をしている山上の垂訓と呼ばれる箇所である。信仰によって義とされて新しい性質が与えられている弟子たちに、幸いなるかなで始まる長い話の中の一部であります。主は信仰によって歩む者に「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられる」(マタイ6:33)と教えた。神による支配と神の御心を優先して生きるならば必要はすべて満たされる。

その根拠としてイエスは空の鳥や野の花について語っている。鳥たちは種まきもせず、刈り入れもしないけれども、天の父に養われている。野の花も天の父によって美しく彩られている。であるならば、あなた方は鳥や花よりもすぐれたものだから天の父は、あなた方の必要を備えてくださると語りかける。これは現代に生きる私達に対する主イエスのメッセージでもある。

結論
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)ゆえに私たちも主に信頼し、心配せず、今日という日を精一杯生きようではないか。